
一世を風靡した風太郎忍法帖ながら、いま山田風太郎の名前を聞いて忍法帖しか思い浮かべない人はむしろ少数派だろう。空前の忍法ブームが去ったあとに育ってきた読者人口が増えたせいだけではない。忍法帖はその後もおりおり復刊され、漫画『バジリスク』のように違うメディアにアレンジされて新たな魅力を発見されたりもしている。
しかし忍法帖は豊穣な風太郎ワールドの一部でしかなく、その全体像に注目が集まっているのだ。初期のトリッキーな探偵小説、豊臣秀吉の英雄像を覆すような逆説史観あふれる時代小説、明治時代をガラス絵さながら色鮮やかに再現しつつ無類に面白い物語を構築した作品群……。また『戦中派不戦日記』では青年の眼で日本の現状を透徹し、晩年には老いと死を飄々と語り、市井の哲学者の風貌さえ感じさせた。
絶頂をきわめ、翳りが見える前にいち早く次なるジャンルに挑戦してきたことに、終生人気作家の座を保ち、没後十年の今もなお飽かずに読まれる秘密があるだろう。だが、それ以上に、ジャンルを超えて共通する精神――この住みにくい世の中を真剣に誠実に生きるには、すべてを笑いのめすしかないという諧謔の心が、同じように住みにくさを託っている現代人を魅惑して離さないのだ。
これこそ、忍法帖に限らず、全作品に通底する山田流忍法の奥義にほかならない。その秘伝をわずかなスペースで公開するのは不可能――というより、どれだけスペースがあっても足りないだろう。プロ作家にも熱烈なファンが多く、そうした人々の作品のあるものは風太郎忍法の分身の術による成果にも見える。それらをも含め、広大な風太郎ワールドの入口だけでも示せれば幸いである。
「探偵小説」は懐かしいだけ? いやいや、今もその妖しい魅力は色あせていない。本年8月、ミステリー文学資料館の編で、1938(昭和13)年の「新青年」に発表された傑作のアンソロジーが刊行されたが、作品そのものだけでなく、戦前の探偵小説本を愛好する人は多い。その独特の装幀もまた、現代にはない魅力である。
日本に探偵小説を紹介した黒岩涙香の創作『無惨』や、その涙香の独特の翻訳で話題を呼んだ『幽霊塔』は、探偵小説が日本にようやく紹介された頃、100年以上も前の刊行である。
江戸川乱歩の最初の著書である『心理試験』は歴史的な一冊だ。乱歩とともに探偵小説界を支えた小酒井不木、人気作家として多くの作品を発表した甲賀三郎と大下宇陀児、検事出身の浜尾四郎は、大正末期から昭和初めにかけての探偵小説ブームの代表的作家である。
『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』は奇書としてつとに有名だ。『鬼火』で横溝正史は耽美的作風を確立した。戦前に数少ない本格の短編集として『死の快走船(ヨツト)』は忘れがたい。『船富家の惨劇』と『白日夢』は、戦前では珍しい書き下ろし長編募集の入選作である。そして木々高太郎は、新人ながら、昭和10年前後の探偵小説ブームの中心にいた。
新幹線も携帯電話もない時代に、探偵作家たちはどんな謎をちりばめたのか。秋の夜長に読み耽ってみるのも一興だろう。
※展示資料